聞法は自分だけのこと

聞法をするにあたって、何度も何度も住職に注意されてきました「仏法を聞くというのは、自分が良くなるためにするとか、したからよい自分になるということではない」と。

分かっているつもりで、分かっていないんだなぁと、分かりました。

何十年も聞法をしている先輩に対して「ずっと聞法をしてきたくせに、そういう人を区別し、上下をつけるようなことをするんだ」と反発する心がおこる事がありました。

そして「ずっと聞法をしていたってああいう振る舞いをする先輩がいるのだから、自分だって何十年聞いたってなにも変わりはしないんじゃないか」そう思いました。

まさにこれが聞法を手段としている自分の姿でした。

誰がどういうふうに聞いていようが関係ない。誰の話を聞こうが、どんな立派だと言われている人の話を聞いたことがあろうが関係ない。自分がどう頭で理解するのではなく、自分の身で受け止められたかだけが問われるのが本来です。

それが全く分かったつもりで分からないのです。この人の話を聞いてりゃ間違いないとか、沢山聞いているから立派な人だとか、そういう楽なものを求めている自分がいるのです。

なのでまずはいつでも「いいお話が聞けました」というふりをするのを辞めるところからしてみます。法話の後に「とても為になりました」なんて言うのが定番みたいになっているますが「為になる」って何? 「為」ってなんだ? と、そういう定型文の楽さを疑わなければいけないと、そう思います。