坊さんになるということ

なんで坊さんになるかというと、おそらく9割以上の人は家が寺だったからという事だと思います。そして残りの1割の人は色々と語るけれどもようやくすると生きずらかったからということになるんじゃないかと思います。勝手な想像なので違うかもしれませんが。

私も頻繁に「なんでお寺の出身でも何でもないのに、お坊さんになるなんてとんでもない一大決心をしたのか教えてほしい」と言われます。そして困ります。お話をするようにいくつか「これこれこういうことがありまして」というエピソードはあるのですが、自分自身の中ではそんな清水の舞台から飛び降りるような覚悟で目指したわけでもなく、明確な目標や、世の中をよくしてやるという志があったわけでもありません。なので色々語ったところでようやくすると、社会生活で行き詰る中で落ち着くのが仏教の世界だったとか、そういう程度です。

暁烏敏という有名な先生が「わしは日本中が坊さんになってくれたらいいと思ってる」と言ったそうです。

それを聞いて、なるほどなぁというか、ホッとしたような気持ちになりました。坊さんになるというのは実際には特別な事ではないと思うのです。なろうと思えば寺に生まれていなくてもなれるし、求めていれば開かれている世界だからです。出会いや巡りあわせ次第では簡単ではないかもしれませんが、私自身の経験からするとなんとかなる程度の難しさだと思います。

僧侶になるというのは資格を得るわけですが、その資格というのは、いわゆる運転免許証と同じような意味合いで資格と言えば、お経が読めるということでしょう。あとはある程度の知識と人物であると認めらえる程度の能力の証明でしかないと思います。

普通の資格は「自分+能力」の形の証明です。自分に特定の技能や知識が付加されているというのが資格です。

ただ僧侶の資格に関しては「自分(僧侶)」という性質だと思います。自分に知識や能力が足される形ではなく、自分の部分が試されているという形です。

なので暁烏先生の言葉でいえば、日本中のみんなが自分自身を問い直して試して生きていくようになればいいなということじゃないかと思うのです。

得度するというのは「暮らし方」ではなくて「生き方」を問題にしていくという決心だと教わりました。何をして生活していくかを重視するのではなく、何をしていてもどう生きていくかを重視する生き方です。そういう風にあろうと決めたというのが私自身の得度であって、だから人に御披露するようなエピソードも志もないというのが本当のところのように今は思います。