今日もTVから流れるニュースに

令和に入ってから、毎日のように殺人事件が報道されている気がする。

乳幼児を虐待死させたというニュースが頻繁すぎて、段々世間的にも麻痺してきているのではないだろうか?
かくいう私も今やっているニュースが先日に見たニュースの続報なのか、新しい事件のニュースなのかハッキリしないままニュースを右から左に流している気がする。

また、若い親が幼い子を殺す事件以外でも近親者間での事件が多いように思う、高齢になってから介護に疲れて親を殺してしまった事件、長年連れ添ったパートナーを高齢になってから殺めてしまう事件。

学生同士のトラブルが原因で刺し殺してしまった事件など、子供同士の殺人事件もいくつか起こっている。

令和になってからの2か月半、なんだか本当にちょっと怖くなるくらい人が人を殺す事件が多い。
特に元号が変わったから増えたってことではなくて、平成の最後の方からずっと続いて増えているだけなのかもしれないけれど、それにしてもちょっと偶々続いているというのではないような感じもしている。

平成を終えるときに何かを置いてきてしまっているのではないか?
向き合うべきことに向き合わず、新しい時代だ!と言って忘れることで無かったことにしようとはしていないか?
その世間のお祭り騒ぎと、それに取り残された人の絶望に関係は全くないといえるか?

「凶悪事件」「残忍な犯人」「警察・行政の失態」と、同じ国で起こっている出来事を遠くの世界の物語のように扱い、自分たちに責任があることではないとしてはいないか?

先日、秋葉原での白昼の通り魔事件を起こした加藤死刑囚についての番組をしていた。
彼は何も反省しておらず、死刑を待つ牢獄の中でも、死刑上等、こんな世界に自分を追い込んだ社会を呪うという旨の文章を記しているそうだ。
そして、その文章に共感する若者が多数いる。
彼の文章を引用し「加藤の気持ちが分かる。私は殺人犯にならないように気をつけなきゃ」と投稿をしている女性が映し出されていた。

あの事件。事件自体は過去のものかもしれない、しかし、それに対して向き合うことをせずに死刑にして終わりとしてしまえば、同じことが近いうちに必ず起こるように思う。

起こっている事件は特殊な狂人が起こしているというのではない。縁によってそういう状況に追い込まれた人間が起こしている。そういう状況に「何が」追い込んでいるのか、それを考えなければいけないのではないだろうか。

私は縁によっては自分が人を殺めてしまう世界が、すぐそばにあったのではないかと思う。普通の人として生きている自分ではあるけれども、その普通はちょっとした原因で簡単に異常なところまでブラされてしまう、そういう弱いものであると思う。

昨今起こる事件に共通するのは「いのち」という感覚の欠如のように思う。それは起こる悲劇に学ばず、自分の身に降りかかることでなければどうでもいいと思うようになってしまった、私たち現代を生きる人間の作り出す空気による病のように思う。