宗教は扇の釘のような教え

私たちは生きる中でいろんな顔を使い分けています。

親に育ててもらっている時は子供の顔、学校に行ったら友達の中での仲間の顔、結婚をすれば夫の顔・妻の顔、子供ができたら親の顔。いろいろあるわけです。

その色々をこなしながら、本当の自分って何だろうとか思ったりするときがあります。なんの役割も割り当てられてない自分は一体どんな人だっけと。

色んな自分を集めてまとめて居る自分が居なければ、もう自分というのはバラバラになって、心が壊れてしまうんじゃないでしょうか。その色んな自分をしっかりとひとつにしてくれるのが宗教だと言います。

それは扇の一枚一枚を一か所で留めている釘のようなものだと。その釘がなければ、扇は扇にならない。なんの役割もしない。扇の一枚一枚は喜怒哀楽様々な自分だったり、親子夫婦恋人友達色んな自分をあらわします。そういう様々な自分をひとつ要としてつないでいくのが宗教です。

自分が自分であることを形作る教えということでしょう。それは言い換えれば、自分が自分の足で人生を歩いていくための教えということかもしれません。宗教など信じない自分は無宗教だという人が増えている今の日本で、居場所がない、生きずらいという人が多いのは、世間のせいではなく自分の要がないことが原因であるように感じます。