先に不安になるとき

ずーっと自分の人生がなんとかなるか不安でした。

なんとかなるというのが、そもそも、どういう状態をイメージしているのかすらハッキリしないのに、死ぬまで生きられるかが不安でした。

それはつまり今にして思えば、死ぬことよりも、生きることが不安でした。
なにが不安なのかよくわからない状態で、死ぬまでお金があって食べる物住む場所に困らないで過ごせるか、死ぬまで病に苦しまず健やかに過ごせるか、そういう漠然として内容で、都合よく生活していけるかという不安みたいなことだったと思います。

死ぬことが不安でないという状態は、状態として生命活動はしているけれども、自分の命を生きているという状態ではなかったことだと思います。

そこに居るだけ。もしかするとあるだけ。のように自分を感じていた日々です。

自分の存在を感じられない時間は、自分と他人との接点の少なさに原因があったように思います。思春期から青年期にかけて、いじめにあったり、過酷な労働をしたり、積み重ねた負担でバランスを失った心は「これ以上、傷つきたくない」と訴えていました。傷つかない為にどうするかというと、限界まで他人と接さないという状態を作り出し、私は堅牢な檻に自分を閉じ込め守りました。ひきこもり、と言われる状態です。

ひきこもり生活をして人との接点を失うと、自分の存在が分からなくなります。
人間の目は外向きにしかついておらず、他人の存在がないと自分の形を認識することが難しくなります。頭の中で考えている自分の姿が人格を持ち始めると、肉体の方もその人格に動かされているような逆転現象が起こるような気がします。
これは自分のイメージで、医学的にどうとかは全然分からないのですが。

ひとりになることを選んでいても、人間の命としては誰かを求めていたのでしょう。
その状態をいつも苦しいと感じていて、誰か助けてくれないかなとずっと心の奥底に祈りをもって隠していました。誰にも言わないけれど、お盆の時に仏壇に「何か突然いい縁がふってきて、億万長者になって美人と結婚できますように」とお願いするようなそんな感じです。笑っちゃうでしょう?

今にして思えば人との接点がないのに、見たこともない他人が救ってくれることなんて言うのは、もう物理的に起こりようがないのですが、そういうことに気が付くこともありませんでした。

結局私をそこから救ってくれたのは、視覚障碍者の人にパソコンを教えるというボランティア活動をしたことでした。ひきこもっている間に自然と身についていたパソコンの知識が人の役に立つことになり、こんな自分でも人の役に立つということがあるんだという喜びでした。

仏教の教えからすると、役に立つ立たないというモノの見方に既に問題があったわけですが、教えの言葉を聞いたこともない二十代の自分にとって「役に立つ」という価値観は、間違いない正しいことのように思えていましたから。

そのボランティアをしてみたらいいんじゃないかと私に言ってくれたのは、ひきこもっている私を叱ることなく、いつも通り食事を用意し洗濯物を洗い、そのまま受け入れてくれていた母でした。母が私を見てくれていた眼差しが私を救ってくれたことなります。
突然ボランティアなんて言われたら抵抗がありそうなものですが、不思議とすんなり、ああそれをしてみようかなと思えたのです。きっと母には息子の性格も悩みも分かっていて、そういうことがきっと良いと思っていたのではないかと思います。

人は他者の存在との「間」に、自分の存在を感じることが出来る。
他者からのあたたかい視線があって、生きている実感がやっと持てる。
そういうものではないでしょうか。

そして誰かに助けてもらうのを待っている。だけだったその時間で、私が誰かを助けることができるということ。今の自分を自分が動かすことで、それだけで変わってくるものだと思っています。

それは仏教的に言うならば、愚かな自分であるということに気が付くこと。それが全ての一歩だという事だと思います。

自分から出る言葉

何か考えを発信しているときに、その内容っていうものは、だいたい自分が生きやすいように均したものである事が多い。

そうでなくても、もうよくよく考えて、これは自分の経験から言っても間違いない!
と思っていることですら、自分という欲望にまみれている自分から出てくる以上、まぁまずほんとうのことではない。

それに気が付くことが難しい。
難しいというか、だいたいの場合できない。
いちいち自分が言葉を発するときに疑ってかかって生きるわけにもいかないのだから、当然なのかもしれないけれど。

これは良いことを言っているぞ! とか、俺の意見を聞け! みたいに力んでいるときは、9分9厘言う前に考え直した方がいいことが頭の中に巡っている。

ここに書いている言葉も、また怪しくて危うい。

こころ

今の時代で、一番置いてけぼりになっているが「こころ」じゃないかな。

だからうまくいっていないことって多いような気がする。

手足以上に「心」って生きる上で便利に物事を捌けるモノなんだと思うんだけどな。

二つに分けられている事は

人の世の中にある物事というのは「ふたつの違うもの」に分かれているものが実にたくさんあると思う。

善と悪
男と女
大人と子供
優等生と劣等生
正解と間違い
集中とリラックス
友情と愛情
美味しいと不味い
好きと嫌い

などなど、まぁ沢山ある。

そういうことに出会ったときには、その二分割をまず疑った方が良いように思うようになった。二つに分けようとすることで、その狭間にある部分と言うものが0であると誤解して認識されていく。

男と女にしても、男の中にも女らしいと言われる部分があるし、女の中にも男らしいといわれるような性質は誰にもある。割合が違うだけのようなことが沢山ある。
自分が歳をとってみれば分かるけれど、年齢的には大人に分類されているけれども、大人の中には子供の部分がまぁこれは相当の割合で残っているように思う。

善と悪なんてもので考えれば、二つに分けることで争いが生まれたり、殺し合いが始まるような恐ろしいことに繋がっていく。ニュースを見ていて「悪い奴がいるものだ! けしからん! こんなやつは死刑だ!」なんて思っているときは、もう相当に危ない。それを善の立場から見ている自分に気が付き、自分の中にも悪側に立ってしまう可能性はないかを自問するのが良いように最近では思う。

「どっち?」という問いの状態に対して「どっちもある!」っていう回答が自分にとって一番しっくりくるんじゃないかというのは、いつでも考えていきたいと思う。
だって自分の中って複雑に記憶や経験や感情が絡み合っていて、そのすべてが二択を選んで作られてきたわけではないのだから、ほんとうは簡単に「どっち」って言えないんだよって。