海法龍先生の本を読んでいて、胸が痛いというか、苦しいというか、心にずしんと来てどうしようもなくなったので記します。
ある保育士さんで、園の管理職をしている方が、親族の葬儀に来ていたそうです。
ご親族の葬儀が終わり「自分が勤めている保育園でも先日、園児が亡くなり、その子の両親に挨拶もしなければならないし、園の中で部下に対して気の利いた話もしなければならない。こういう時はなんといえばいいのでしょうか?」とたずねられたそうです。
この話を読んでいる自分には無自覚に次のような印象がありました。
「なるほど、大変だなぁ、それはお坊さんに聞きたくなるよねぇ」と。
これが私の中にある、無責任さ誠実ではない自分でした。
この保育士さんの振る舞いに、何の疑問も違和感も抱けないのが私でした。
先生はこう書かれていました。
「当事者として他人事ではなく考えるということろに、深い悩み、苦しみになるのです。その中で仏教や教えに触れて響いてくる世界がある。誰かに答えをもらって、理解して、自分の処世術にして生きることが楽になる、ということではないでしょう」
この一文に私は頭を叩かれたような衝撃でした。
「これは自分のことを言われている」
と、恥ずかしい自分を見られてしまったような思いにかられました。
「答えを求めているだけであって、悩みではない。
どう言ったらいいか困っているだけで、悩んでいない」
と先生はいうのです。
それでも先生は保育士さんに応えたそうです。
「お子さんの死から学ばせていただくということは、その死が決して無駄にならないことなのだと。いつどうなるか分からない限りのある命をいきているのだと。老いも若いもない、自分たちもそういう命を生きている。だからこそ命の尊さと重さがあるのではないでしょうか」と。
そのようなことをお伝えしたそうです。
それを受けた保育士さんは
「ああ、そういえばいいのですか、良くわかりました」と喜んで帰られたそうです。
この保育士さんを非難したいような気持が芽生えます。なんて浅ましいと。
でもこの保育士さんを非難することはできません。
「この保育士さんは、私だ」
どうしようもないジレンマに頭を抱えて、うずくまりたい気持ちになります。
思えば、何故仏教に触れようと思ったかと言えば、寺に勤めている以上は門徒さんに何か聞かれたときに少しは答えられれば格好いいと思ったから。
みたいなどうしようもない理由だった気がします。
仕事上のツール扱いです。
ちょっと良いこと言ってるぜ俺。
くらいのあこがれみたいなものが自分の奥のドロドロしたところに眠っていたように思います。自分の装飾です。
そして今もそれはあるのだと自覚があります。
仏教に触れることは、本当に疲れる。
それが最近の印象だったりします。
※参考図書『苦悩の海を行く』 著・海法龍 発行・東京真宗同朋の会