念珠って何なの?

先日「お念珠ってどういう効果があるものなの?」と聞かれたことがありまして。

はて? 念珠の意味というとなんじゃろか? と分からなかったので、調べました。いつも通り、諸説あります、って感じでしたが次からはこんな説明をしようと思います。

もともと念珠は念仏を唱えた回数を数えるために使われていたものである。なので珠の数は108つの煩悩の数になっている。さらに元はお釈迦様が疫病で悩んでいた国の国王に木の実をつないで手にもって三宝を唱えれば救われると伝えた為、仏との縁をつなぐ仏具として定着した。

108の珠ひとつひとつに煩悩をひきうける仏様が宿っているというお守りのような説明もある。

実際に私たちが手にする念珠の珠の数は108つの半分の半分である27つで作られていることが多い。108つもあると持ちにくい為。
浄土真宗では念仏を数える道具として使うことはないが、仏様との縁をつなぐ仏具として仏事には欠かせないものである。

一番大きな珠を親珠とよび『釈迦如来』『阿弥陀如来』をあらわす。
親珠を中心として輪になっていることは、仏様の心を私たちの心の中に通して心が素直に丸くなっていくことをあらわしている。

というようなのが念珠の概要です。
実生活での理解では、葬儀や法事のときには忘れてはいけない身につけるものの一つとして覚えておけばいいかと思います。黒い服をしっかり着てネクタイを締めてくるけれど、念珠を忘れている人は結構多いものです。

また「数珠」と「念珠」は全く同じものを指します。
もともと念仏の数を数える為の珠だったため「数珠」と呼ばれていたが、数珠に念・想いをこめたものであったことから「念珠」と呼ばれるようになったそうです。

「念珠の紐が切れたんですけど、不吉なのでお寺で引き取ってもらえますか?」と聞かれたことがありますが、念珠の紐が切れることは不吉でもなんでもありません。形あるものはみな壊れていくというのが真実の姿ですし、念珠の紐が切れるほど仏事に熱心に携わったと思えばむしろ良いことだと思います。直してもよいですし、新しいものに変えてもよいですね。それでもどうしても心配な人は、自分のお墓のあるお寺の住職さんに引き取ってもらうか、新しい念珠を買うついでになら仏具店で無料で引き取ってもらえると思います。

くれぐれも厄除け・お祓いしてもらうために何万円も支払うようなものに騙されませんように。

仏教を学ぶという事から「なんといえばいいのでしょうか」

海法龍先生の本を読んでいて、胸が痛いというか、苦しいというか、心にずしんと来てどうしようもなくなったので記します。

ある保育士さんで、園の管理職をしている方が、親族の葬儀に来ていたそうです。
ご親族の葬儀が終わり「自分が勤めている保育園でも先日、園児が亡くなり、その子の両親に挨拶もしなければならないし、園の中で部下に対して気の利いた話もしなければならない。こういう時はなんといえばいいのでしょうか?」とたずねられたそうです。

この話を読んでいる自分には無自覚に次のような印象がありました。

「なるほど、大変だなぁ、それはお坊さんに聞きたくなるよねぇ」と。
これが私の中にある、無責任さ誠実ではない自分でした。
この保育士さんの振る舞いに、何の疑問も違和感も抱けないのが私でした。

先生はこう書かれていました。
「当事者として他人事ではなく考えるということろに、深い悩み、苦しみになるのです。その中で仏教や教えに触れて響いてくる世界がある。誰かに答えをもらって、理解して、自分の処世術にして生きることが楽になる、ということではないでしょう」

この一文に私は頭を叩かれたような衝撃でした。
「これは自分のことを言われている」
と、恥ずかしい自分を見られてしまったような思いにかられました。

「答えを求めているだけであって、悩みではない。
どう言ったらいいか困っているだけで、悩んでいない」

と先生はいうのです。

それでも先生は保育士さんに応えたそうです。
「お子さんの死から学ばせていただくということは、その死が決して無駄にならないことなのだと。いつどうなるか分からない限りのある命をいきているのだと。老いも若いもない、自分たちもそういう命を生きている。だからこそ命の尊さと重さがあるのではないでしょうか」と。

そのようなことをお伝えしたそうです。

それを受けた保育士さんは
「ああ、そういえばいいのですか、良くわかりました」と喜んで帰られたそうです。

この保育士さんを非難したいような気持が芽生えます。なんて浅ましいと。
でもこの保育士さんを非難することはできません。

「この保育士さんは、私だ」

どうしようもないジレンマに頭を抱えて、うずくまりたい気持ちになります。

思えば、何故仏教に触れようと思ったかと言えば、寺に勤めている以上は門徒さんに何か聞かれたときに少しは答えられれば格好いいと思ったから。
みたいなどうしようもない理由だった気がします。
仕事上のツール扱いです。

ちょっと良いこと言ってるぜ俺。
くらいのあこがれみたいなものが自分の奥のドロドロしたところに眠っていたように思います。自分の装飾です。

そして今もそれはあるのだと自覚があります。
仏教に触れることは、本当に疲れる。
それが最近の印象だったりします。

※参考図書『苦悩の海を行く』 著・海法龍 発行・東京真宗同朋の会

続く虐待事件に思う

昨年末から幼児の虐待死の事件が世間をにぎわせている。

こんなにかわいい子がなんて酷い目にあってしまう世の中なのか、何故救えない社会になっているのか。
みたいな切り口でマスコミが細かい情報を次々と流している。

同じような事件が起こらない為に、現状を分析し、子供を守れる社会を作り上げていくことが大切だ。

というような最大公約数みたいな意見が、意見の落としどころなのだろうが、なんだか違和感があるというか気持ち悪さみたいなものを感じる。

酷い事件を知り、憤りを感じ、亡くなった子を可哀想だと思うのは「ふつう」の感覚だと思う。人と人が温かい繋がりをもてる為の人に備わった気持ちのような。

そしてその反面で、虐待を働いていた親を憎い、罰せよ、と思うのも「ふつう」の感覚だと思う。

で、直接的に親を死刑にしろ! というのは倫理上問題がある。
じゃあもう少し広い視点で社会を変えろ! というのはなんとも「おとな」の意見という気がするし、角も立たないように思う。

ここからが、ひっかかっていたところになる。

弱い子供を救うのが「よいこと」だとして、それを成すのは自分たちではなくて行政ということになる。

児童相談所に勤めている人は、子供を救うために、もっとちゃんと働け。
と短絡的に言うのは違うと思う。

子供を救うために、それを救う人が不幸になっていくほど勤めなければならないのは、今の不幸な社会を作っている考え方そのものではないか。

今でも児童相談所の職員さんは、他の公務員なんかと比べ物にならないくらいプライベートな時間もなく働いている。異動先で嫌がられる職場で、一年で異動を希望する人ばかりだし、一年持たずに病気になったり、辞めてしまう人が多いような状態らしい。
児童相談所の副所長さんと飲む機会があって話を聞いていた限りでは、ちょっと普通じゃないくらい精神的にぶっとい人じゃないと勤まらないし、そうして勤めていても救える子供の数は呆れるほど少ないらしい。

法律の整備とか、各機関の連携がどうとか、やるべきこと色々とあるだろうけれど考えなければいけないことはもっと違うところにあるような気がする。

各家庭が密室化してしまった現代社会であるとか、こういう事件を自分たちとは関係のない特別な精神を持った人間の悪行であると扱う風潮なんかに疑問を持たないといけないんじゃないだろうか。

言葉に振り回されると思う事

言葉というのは、非常に融通が利かないと思うことがちょいちょいある。

例えば「不幸」という言葉が、指し示す意味内容は人によって想像するものが全然違うような気がする。なので「幸せ」なんて言葉は本当に何を指しているのかさっぱり分からない。「幸せになりたい」なんて言った日には、もうどうなりたいかなんて話している人のイメージと聞いている人のイメージが100%一致することなんて無いだろう。

だから「幸せになるために」とか、そういう謳い文句の本やらチラシは、もうそれだけで残念でした! と思っちゃいます。

なんて天邪鬼なだけじゃないか! と言われてしまいそうだけれども、言葉には具体的ではない事柄をさしていて、それだけに相手が受け入れやすくなる魔法のワードというのがいくつもあると思う。プラスでもマイナスでも。

「愛」なんて言葉は、とっても広いプラスだろう。「世界中に愛があふれる世界を」なんて言ったら、とってもいいことを言っている感じになりがちで、中学生くらいの作文で、このワードで締めたら先生もなんとなく納得しちゃうんじゃないだろうか。

「成功」という言葉も怪しいものだと思うのだが、『成功の秘訣』とか『成功する人はやっている』なんて本が多いのも、なんだかよく分かんないけれど成功するのは良いことだという受け取り手の土壌ができているからだろう。

「病気」なんていうと、もう絶対的にマイナスなものに思えるが、じゃあ病気ってどんな状態なのかというと、人によって全然違う。虫歯は病気にはいるのか? 風邪くらいは病気に入らないのか。日頃悩んでいる片頭痛は病気か。

なんて感じに色々思いつく。

言葉っていうものには、言葉として人に聞こえる状態に出る前に、言葉を発する人の中にある状態があって、それは頭の中かもしれないし、お腹の中なのかもしれない。その出てくる前の言葉の元みたいなものが凄く大事だと思っている。そこに触れることが出来きたような感覚のある会話が達成されると、人は人を信じることができるんじゃないかなぁ。

そんなことを思っているから、自分の状態を言葉で表して悩みに縛ることは止めようよって思う。今、不幸だなぁ、と思っているときはしんどいもの。まぁなんかこういう状態だよ、のほほ~ん。ってできれば最高なんじゃないかなぁ。

今更知った ○回忌の数字のいわれ

お寺の事務のお手伝いを初めて4年目。
広報のお手伝いをするようになって6年目。
その間に、ちょくちょく年回表(何年に亡くなった人の何回忌ですよーという表)を作っていたのにもかかわらず気にもしなかった。

なんで○回忌ってこの数字なんだべか?

主に○の部分書いてあるのは1、3、7、13、17、23、27、33・・・50。
みたいな感じです。1だけは1周忌。あとは3回忌、7回忌、13回忌・・・と続いていきます。

なんで3とか7なんでしょ?

諸説あるそうですが、次のような説明がしっくりきたので、今後誰かに聞かれたらこのように説明しようと思っています。

まず個人の命日に、亡くなった方を通してお経をいただき法話を聞く機会を持つというのが大事なことで、毎年やるのが良いみたいなものだった。
でも実際に毎年やるのは皆しんどいので仏教に関係のある数字として3と7のつく年にやることになっていった。

3は2を超える数字。2とは「善悪」「有無」「損得」などの人間に染みついている生き方。
7は6を超える数字。6とは「六道」からきている。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という6つの世界、仏法に出会う前の輪廻転生する世界を表している。

つまりは、人間が生きている世界から離れて、仏の世界に生きられるように、亡き人を縁として教えに触れる。というような意味合いの数字のようです。

ちなみに1周忌は亡くなった日の1年後だが、3回忌は亡くなった日の2年後になる。これは亡くなったその時を1回忌と数えるからで、1周忌の時は2回忌、2年目は3回忌。ややこしい。

上記に書いた内容は、一つの説で、諸説あります。
ちょっと調べたら、諸説ありすぎる感じです。

※まとめ
法事は亡き人を通して教えに触れる機会。本来は毎年やるべきだった。毎年じゃ大変だから3と7という数字の時にやりましょう。3・7については色々言われている。だから思い立った時、親戚が集まれるとき、回忌と関係なくやることも本来はあり。

浄土真宗の浄土がわからない

死んだらお浄土に行けるよ。
だから、生きている今に善きことを積み重ねなさい。

というのが多くの宗派の考え方だと思う。
(違うかも)

いやいや、死んだ後のために祈るよりも、今の現世を真実の目で生きることで、今からすぐに浄土のような世界を生きられるよ。
でも、凡人だから難しいよねー。わかるわかるー。

ってのが浄土真宗の立場だろうか?
適当すぎて聞ける相手がいない。

そんなお寺の事務員3年目。

この問題、勉強会で解明できたら書こうと思います。

迷路

現実にある地下道もゲームの迷路みたい。
縦横に人工的に作られた通路は、どこにでも行ける道ではなくて、
開けることもない扉に気づきもせずに皆通り過ぎる。
中に何があるかなんて気にもならない。

グリーフケアという単語

どんな時でも、言葉に対しては難しいなと思うことがある。
それは言葉の成り立ちそのものが、音や記号に対して共通認識があるという前提で成り立っているからで、その前提は思っているよりも間違っていると感じるからだ。

最近気にしているグリーフケア。
私自身もグリーフケア研修会という名前の講義をうけたが、この横文字の単語ははたして有効に機能しているのだろうか?

研修会の後で、あるお坊さんが言っていた。
「グリーフケアのことなんて知らなかった。もっとグリーフケアを学ばないとそれに関することなんて何にもできない」と。

このグリーフケアという新しい単語が、中身を未知のものにしてしまっているように思える。

なんかもっと、わかりやすい言葉にならないだろうか。
桃屋の辛そうで辛くない少し辛いラー油
みたいな。

人が亡くなる時に起きる心身の反応に向き合っていくということ
みたいな。

ダメか、昨今のラノベみたいだ。

グリーフケア研修1回目

お手の仕事の一環として、僧侶向けのグリーフケア研修会に参加しました。

グリーフケアとは、死別への支え、みたいな意味を持ちます。

研修会の主な内容は、私が嫌いなワークショップ形式による集団での学び合いです。
この手の研修は、市役所時代の新採研修を思い出して、超憂鬱なんですよね・・。

一般社団法人リヴオンという団体の女性2名が先生で、最初の印象は若い先生で、なんだかふわっふわした研修会になるんじゃないかなぁという不安でした。
お二人の先生は家族を自死で亡くしている、交通事故で亡くしている方で、自分の経験から団体を立ち上げた方たちでした。
ボランティアをしていても思いますが、自分の辛かった経験をプラスに転換しようと、活動をしている人達は芯が通っているのでやはり違います。
最初の挨拶からすっかり引き込まれてしまいました。
研修の内容については今回は置いておきます。機会があれば感想を書きたいと思います。

私が研修を受けた経緯が、自分にとっては大事なものでした。
前の仕事を辞めて3年が経ちますが、今でも前の職場でお仕事に誘っていただくことがあります。ありがたいことです。
今回もその職場でアルバイトに誘われ、挨拶に行き、ひとしきり色んな人とお話をして帰るときに、仲が良かったパートさんに声をかけられました。
「実はね、主人が亡くなったの」
帰りがけです。ぽつりとつぶやいたその言葉が胸に重く響きました。
その時、その場で自分が何かは言ったと思います。よく覚えていませんが、そのまま喫茶店に入って「何も言葉が思いつかない」「もっと力が欲しい」と思ったことだけは強く覚えています。

その後メールで「お寺に勤めているって聞いて言いたくなったのかも」という気持ちを聞き
「今度ゆっくり話しましょう」というやり取りをしたものの、本当にお寺にいるだけで、仏教についてもぼんやりとしか知らないし、人が亡くなるという事実の近くで仕事をしているけれども、それに対して何の準備もできていない自分を痛いほど思い知りました。

頼ってもらえる以上、それにこたえられる自分でありたい。

そういう思いで、大きな期待を寄せてグリーフケア研修に参加しました。
しかし、研修を受けたから、深い悲しみの中にいる人の役に立てるとか自信を持って言葉をかけられるようになる。なんていうのはやっぱり無いのだと気づくことになりました。

初回の研修での主な内容は
「グリーフは人によって違う」
だから、色んな形の支援があるし、僧侶は何ができるか考えてください。
というものだったと思います。

もちろんそれを「知る」ことで、新しく考えが浮かびますし、整理もできます。
でもそれは、大半の参加者が求めていた安易な解決などないということを伝えてもらっただけだったようにも思います。
また「死」や「弔い」というものはどういうものであるか、お寺の人間が改めて自覚していかなければいけないと言われているように思いました。

そこで、私が感じたズレが、とても大事なものだと思っています。
「仏教や各宗派の教えにある、死生観や言葉というものが、本当に悲嘆に暮れている人を救うのか?」
です。

実際に私はこの研修の前日に、御主人を亡くされた知り合いの話を聞く機会がありました。
お寺にいる人だから、という期待を多少背負ってその場にいました。
その時に自分の知識が不足しているから、信仰が浅いから、という点を考慮したとしても、その時その場で「仏教ではどう考えますよ」なんて言うことが、その人に響くとも救うとも思えなかったのです。
そこで響くような言葉を持つこと、それがこれからの自分への課題だと今感じています。

これからの研修で何か見えればいいのですが、答えは自分で見つけるものだとも感じています。

お寺が生み出す機会って

企業は機会を作り出す。お寺は?

糸井重里さんの本を読んでいたら、「企業は利益を生み出すためではなく、機会を生み出すためにあるのではないか」
というような内容のことが書いてあった。「商品」が「ユーザー」に出会うのが機会。「サービス」が「ユーザー」に提供されるのも機会。
「喜び」「便利さ」「満足」などに出会う機会を生み出すのが企業だという考えは、気持ちがいいなと思う。

本来、商売というのはそれを提供する側にも、自分が利益を確保する機会ではなくて、
お客さんの求めているものに応えて満足してもらう機会であることも矜持のようにもっていたような気がする。

昔からの商店をいまだに営んでいる家具屋の社長さんに話を聞いたときにこんなことを言っていた
「今のお客さんは、お店に来て相談だけして、商品の型番を控えて帰って、それをインターネットで探して一円でも安く買う」
人がいるそうだ。何故、店舗があって店を構えているのか、その負担なんて考えも及ばないんだろうねぇと言っていたのが印象的だった。

企業が利益を生み出すためだけに動くようになった背景には、客である我々側の問題も大きいのだろう。
結局、今の息苦しい時代を作っているのは、一番自分たちが弱者だと思っている庶民達の発想の貧困さによるところが大きいのかもしれない。

さて、私が勤めているところが寺なので、こういう話題があがると「じゃあ、寺はどうなのよ?」と思うようになってしまった。
この話における企業を寺に置き換えると果たしてどうなるだろうか。

「お寺は利益を生み出すためではなく、機会を生み出すためにある」
そっくりそのままで、ぴったりと当てはまるのではなかろうか。

お寺が利益を生み出す為の部分にばかり力を入れている結果が「葬式仏教」といわれる現状だろう。
だとすれば、本来はもっと何かしらの「機会」を提供できていたはずである。

現代において、寺が提供すべき機会は何なのか、キチンと考えるべきだろう。
仏教だからできる機会の提供方法のほうを考えてみたらどうかなぁ。