ぼくのなかのプログラム

人の都合に合わせて
生きてきたけど

人の都合に合わせることで
生きてこれたけど

ぼくの都合には
合わせないで生きてきたみたいだ

ミシミシと音がする

ぼくの中の
どこかが壊れていっている

それを見ないようにして
またぼくは人の都合に笑顔を向けてしまう

スマホ時代のあぶないこと

さまざまな事件の背景にある原因のひとつに想像力の欠如があるかもしれない。


その原因、スマホなどによるすぐに調べられる時代。調べて正解を知ることが容易に手に入る為、自分で想像したり工夫する機会が無い。対人関係は本来不自由なもの。相手が何を考え居るかなんて調べて分かるものではない。


結果、人との関係性が希薄になり、自分という個人があり、物事は自分の手軽な手段で手に入る。

人から学ぶ、人との関係に生きる。という経験がなくなり、他者は不要なもの、面倒くさいものと捉え、ひとりの人間としての他人という感覚がない。

自分の価値にあわないものは攻撃し排除してもいい。そういう人が増えてはいないだろうか。自分もそうではないだろうか。

PDFで単一ページを見開き左右逆にする方法

キャナーを購入し、過去の仕事や作業でため込んだ資料をスキャンする作業をしていたところ、左開きの小冊子を断裁してスキャンしたデータを見るときに不都合が生じます。

基本的には単一のページで表示されるPDFですが、ページものだと当然見開きがあります。それを冊子の状態を同じようにみられるように設定する必要があったので、その方法のメモ。

まずAcrobat proでPDFを開いたら、分割表示に表示を変えます。ページ表示の中にある「見開きページで表紙を表示」にチェックを入れる。

二ページで一つの表示になりますが、綴じ方向次第でこんな感じになってしまいます。

「ファイル」>「プロパティ」>「読み上げオプション」の綴じ方向を右にする。

上手にできました。とはいえこれ、画面を閉じると元に戻ってしまうんですよね。

先に不安になるとき

ずーっと自分の人生がなんとかなるか不安でした。

なんとかなるというのが、そもそも、どういう状態をイメージしているのかすらハッキリしないのに、死ぬまで生きられるかが不安でした。

それはつまり今にして思えば、死ぬことよりも、生きることが不安でした。
なにが不安なのかよくわからない状態で、死ぬまでお金があって食べる物住む場所に困らないで過ごせるか、死ぬまで病に苦しまず健やかに過ごせるか、そういう漠然として内容で、都合よく生活していけるかという不安みたいなことだったと思います。

死ぬことが不安でないという状態は、状態として生命活動はしているけれども、自分の命を生きているという状態ではなかったことだと思います。

そこに居るだけ。もしかするとあるだけ。のように自分を感じていた日々です。

自分の存在を感じられない時間は、自分と他人との接点の少なさに原因があったように思います。思春期から青年期にかけて、いじめにあったり、過酷な労働をしたり、積み重ねた負担でバランスを失った心は「これ以上、傷つきたくない」と訴えていました。傷つかない為にどうするかというと、限界まで他人と接さないという状態を作り出し、私は堅牢な檻に自分を閉じ込め守りました。ひきこもり、と言われる状態です。

ひきこもり生活をして人との接点を失うと、自分の存在が分からなくなります。
人間の目は外向きにしかついておらず、他人の存在がないと自分の形を認識することが難しくなります。頭の中で考えている自分の姿が人格を持ち始めると、肉体の方もその人格に動かされているような逆転現象が起こるような気がします。
これは自分のイメージで、医学的にどうとかは全然分からないのですが。

ひとりになることを選んでいても、人間の命としては誰かを求めていたのでしょう。
その状態をいつも苦しいと感じていて、誰か助けてくれないかなとずっと心の奥底に祈りをもって隠していました。誰にも言わないけれど、お盆の時に仏壇に「何か突然いい縁がふってきて、億万長者になって美人と結婚できますように」とお願いするようなそんな感じです。笑っちゃうでしょう?

今にして思えば人との接点がないのに、見たこともない他人が救ってくれることなんて言うのは、もう物理的に起こりようがないのですが、そういうことに気が付くこともありませんでした。

結局私をそこから救ってくれたのは、視覚障碍者の人にパソコンを教えるというボランティア活動をしたことでした。ひきこもっている間に自然と身についていたパソコンの知識が人の役に立つことになり、こんな自分でも人の役に立つということがあるんだという喜びでした。

仏教の教えからすると、役に立つ立たないというモノの見方に既に問題があったわけですが、教えの言葉を聞いたこともない二十代の自分にとって「役に立つ」という価値観は、間違いない正しいことのように思えていましたから。

そのボランティアをしてみたらいいんじゃないかと私に言ってくれたのは、ひきこもっている私を叱ることなく、いつも通り食事を用意し洗濯物を洗い、そのまま受け入れてくれていた母でした。母が私を見てくれていた眼差しが私を救ってくれたことなります。
突然ボランティアなんて言われたら抵抗がありそうなものですが、不思議とすんなり、ああそれをしてみようかなと思えたのです。きっと母には息子の性格も悩みも分かっていて、そういうことがきっと良いと思っていたのではないかと思います。

人は他者の存在との「間」に、自分の存在を感じることが出来る。
他者からのあたたかい視線があって、生きている実感がやっと持てる。
そういうものではないでしょうか。

そして誰かに助けてもらうのを待っている。だけだったその時間で、私が誰かを助けることができるということ。今の自分を自分が動かすことで、それだけで変わってくるものだと思っています。

それは仏教的に言うならば、愚かな自分であるということに気が付くこと。それが全ての一歩だという事だと思います。

自分から出る言葉

何か考えを発信しているときに、その内容っていうものは、だいたい自分が生きやすいように均したものである事が多い。

そうでなくても、もうよくよく考えて、これは自分の経験から言っても間違いない!
と思っていることですら、自分という欲望にまみれている自分から出てくる以上、まぁまずほんとうのことではない。

それに気が付くことが難しい。
難しいというか、だいたいの場合できない。
いちいち自分が言葉を発するときに疑ってかかって生きるわけにもいかないのだから、当然なのかもしれないけれど。

これは良いことを言っているぞ! とか、俺の意見を聞け! みたいに力んでいるときは、9分9厘言う前に考え直した方がいいことが頭の中に巡っている。

ここに書いている言葉も、また怪しくて危うい。

こころ

今の時代で、一番置いてけぼりになっているが「こころ」じゃないかな。

だからうまくいっていないことって多いような気がする。

手足以上に「心」って生きる上で便利に物事を捌けるモノなんだと思うんだけどな。

二つに分けられている事は

人の世の中にある物事というのは「ふたつの違うもの」に分かれているものが実にたくさんあると思う。

善と悪
男と女
大人と子供
優等生と劣等生
正解と間違い
集中とリラックス
友情と愛情
美味しいと不味い
好きと嫌い

などなど、まぁ沢山ある。

そういうことに出会ったときには、その二分割をまず疑った方が良いように思うようになった。二つに分けようとすることで、その狭間にある部分と言うものが0であると誤解して認識されていく。

男と女にしても、男の中にも女らしいと言われる部分があるし、女の中にも男らしいといわれるような性質は誰にもある。割合が違うだけのようなことが沢山ある。
自分が歳をとってみれば分かるけれど、年齢的には大人に分類されているけれども、大人の中には子供の部分がまぁこれは相当の割合で残っているように思う。

善と悪なんてもので考えれば、二つに分けることで争いが生まれたり、殺し合いが始まるような恐ろしいことに繋がっていく。ニュースを見ていて「悪い奴がいるものだ! けしからん! こんなやつは死刑だ!」なんて思っているときは、もう相当に危ない。それを善の立場から見ている自分に気が付き、自分の中にも悪側に立ってしまう可能性はないかを自問するのが良いように最近では思う。

「どっち?」という問いの状態に対して「どっちもある!」っていう回答が自分にとって一番しっくりくるんじゃないかというのは、いつでも考えていきたいと思う。
だって自分の中って複雑に記憶や経験や感情が絡み合っていて、そのすべてが二択を選んで作られてきたわけではないのだから、ほんとうは簡単に「どっち」って言えないんだよって。

聞法する落とし穴とまたそこにある救い

聞法をするということは、仏教のお話を聞いていくことで、一般的なイメージに沿っていえば講演会などに足を運んだり勉強会に参加して話を聞くことです。

日頃から海住職に「聞法をしていく中で、人は仏法を学ぶという行為や学んだ知識を自分の道具にして、自分が優れた人物になっているように見せる道具にしてしまう」ということを言われていました。その場に私がいたからしてくれた話かもしれませんし、そうではないかもしれません。

私が聞法を始めた頃、私の頭の中には漠然と「なんかいい話を聞いていたら、なんだか良い自分になれるんじゃないか」と短絡的に考えていました。その私にとって海住職の言葉は耳が痛くて、薄っぺらい感覚は見透かされてしまうものだなぁと落ち込んだものでした。

しかし、それが1年後2年後になると「それは分かっていますよ! 私はそんな間違いはもうしないです!」と思うようになっていました。そう変化する根拠が特にあるわけでもなく、なんとなくそうなっていました。

聞法を続ける中で自分自身の関心ごとも変わり、物事に対しての見る角度も変化が起こりました。それは浄土真宗の親鸞聖人の教えに軸足を置いて、生きてみようと決めた事による肯定的な変化だと自分では思っています。

テレビでニュースを見ているとき、凄惨な事件に対して、表面的な感想や対策を講じるように訴える画一的な意見しか言わないコメンテーターを見て、この人たちはどこに立って何をもって意見をしているのだろう。と、思うことも多くなりました。
考えることが増え、自分自身に視点を置かないように、様々な角度から物事をみようとしているようですが、実際には私の中で教えをたよりに出来事を考えていくことで人の上に立っている自分がそこにいました。

そのことに気が付いたのは、池袋の交通事故のニュースが報道されているときです。
90歳近い老人が100キロを超える速度で若い母子を含む複数名をはね、母子は亡くなりました。母親31歳、娘は3歳。世間の怒りは元官僚であった老人に集中しまし、厳罰を求める署名は29万通を超えたそうです。

90歳という高齢者の余命と3歳の子供の余命どちらに価値があるか明白だという意見。人を殺しておいて大した罪に問われないという仕組みに対する怒り。冷静に意見をしようと務めた結果として法律や制度を批判する人。こういう意見が8割9割の中で、どのように問いを持てばいいのか過ごしていました。

かわいそうに、残された旦那さん(子供のお父さん)は残りの人生どう生きていけばいいんだろう。事故をおこした人もここまで社会的に積み上げて誇りに思っていたものがあっただろうに、そんなもの一気になくなるくらい人生の意味が変わってしまっただろう。

などと思いながら、夕飯を食べ続けている私がそこにいました。

リビングでニュースを見ている時間と言うのは、だいたい朝ごはんを食べているか、夕飯時が多い我が家です。可哀想だと心を痛めているふうでいて、共感をしているような顔をして、おいしくご飯を食べている自分がいました。ご飯がのどを通らないということもなく。

考えてみると、他所の国で戦争があり、ものすごい数の人が死傷したというニュースを見ながらご飯を食べ続け、さらにニュースが終わってバラエティー番組が始まったら、ニュースで見た内容などすぐに忘れ笑いながらご飯を食べているのが日常です。
その姿、今の日本においては、きっと普通じゃないかと思うんです。
でも、人間の姿として、ほんとうのかたちではないんじゃないか、異常なのではないかと思うのです。

自分のことで思い出してみると、ニュースを見て、食欲がなくなったのは、世界貿易センタービルに飛行機がつっこむ映像が流されていた2001年9月11日アメリカ多発同時テロの時と、2011年3月11日津波に飲み込まれる街の様子が繰り返し放送されていた東日本大震災の時くらいです。その時ですら、気持ちが塞いではいたもののニュースをみながら食事をしていた気がします。

話を戻します。
聞法をしていく中で、問題意識に変化があり、ニュースを見る目も違ってきた気がしています。それはいい変化のように感じていて、誤解を恐れずに言えば「成長」しているようなつもりでいました。しかし、そう思っている自分は聞法をしていることに悦に入り、そうではない人を下に見ているようになっていた事実があり、悲しみをもってニュースを見ているつもりで、心はそこには向いていない姿でありました。

聞法をするということに対する危うさ。その危うさは聞法という行為にあるのではなく、聞法をするという行為を行う自分自身にある危うさです。
またその危ういところに落ち込んでいく自分であっても、気づいていくことができるかもしれないという救い。それを重く感じた事です。

今日もTVから流れるニュースに

令和に入ってから、毎日のように殺人事件が報道されている気がする。

乳幼児を虐待死させたというニュースが頻繁すぎて、段々世間的にも麻痺してきているのではないだろうか?
かくいう私も今やっているニュースが先日に見たニュースの続報なのか、新しい事件のニュースなのかハッキリしないままニュースを右から左に流している気がする。

また、若い親が幼い子を殺す事件以外でも近親者間での事件が多いように思う、高齢になってから介護に疲れて親を殺してしまった事件、長年連れ添ったパートナーを高齢になってから殺めてしまう事件。

学生同士のトラブルが原因で刺し殺してしまった事件など、子供同士の殺人事件もいくつか起こっている。

令和になってからの2か月半、なんだか本当にちょっと怖くなるくらい人が人を殺す事件が多い。
特に元号が変わったから増えたってことではなくて、平成の最後の方からずっと続いて増えているだけなのかもしれないけれど、それにしてもちょっと偶々続いているというのではないような感じもしている。

平成を終えるときに何かを置いてきてしまっているのではないか?
向き合うべきことに向き合わず、新しい時代だ!と言って忘れることで無かったことにしようとはしていないか?
その世間のお祭り騒ぎと、それに取り残された人の絶望に関係は全くないといえるか?

「凶悪事件」「残忍な犯人」「警察・行政の失態」と、同じ国で起こっている出来事を遠くの世界の物語のように扱い、自分たちに責任があることではないとしてはいないか?

先日、秋葉原での白昼の通り魔事件を起こした加藤死刑囚についての番組をしていた。
彼は何も反省しておらず、死刑を待つ牢獄の中でも、死刑上等、こんな世界に自分を追い込んだ社会を呪うという旨の文章を記しているそうだ。
そして、その文章に共感する若者が多数いる。
彼の文章を引用し「加藤の気持ちが分かる。私は殺人犯にならないように気をつけなきゃ」と投稿をしている女性が映し出されていた。

あの事件。事件自体は過去のものかもしれない、しかし、それに対して向き合うことをせずに死刑にして終わりとしてしまえば、同じことが近いうちに必ず起こるように思う。

起こっている事件は特殊な狂人が起こしているというのではない。縁によってそういう状況に追い込まれた人間が起こしている。そういう状況に「何が」追い込んでいるのか、それを考えなければいけないのではないだろうか。

私は縁によっては自分が人を殺めてしまう世界が、すぐそばにあったのではないかと思う。普通の人として生きている自分ではあるけれども、その普通はちょっとした原因で簡単に異常なところまでブラされてしまう、そういう弱いものであると思う。

昨今起こる事件に共通するのは「いのち」という感覚の欠如のように思う。それは起こる悲劇に学ばず、自分の身に降りかかることでなければどうでもいいと思うようになってしまった、私たち現代を生きる人間の作り出す空気による病のように思う。

川崎の事件とすぐそばのこと

今年の頭から、新たに傾聴ボランティアを始めまして、先月その会に参加した時の事。

その日お話ししていたのは80代のおばあちゃん。ちょっと話が飛んだりするものの、お顔もつやつやでとてもお元気そうな印象の方でした。
住まいが公団住宅の4階だというので、ゴミ出し大変だという話の流れの中で

―「いまはお一人でお住まいなんですか?」

「うちには息子が居てね」

―「あぁ、それなら心強いですね」

「うちの子、いわゆるひきこもりってやつなの。誰ともかかわろうとしなくてね、あなたみたいな人がお話ししに来てくれればいいんだけど」

―「そうですかぁ、息子さんはおいくつくらいなのでしょうか?」

「息子って言っても、もうアナタより年上で50代なのよ。何か言うと怒るからもう何も言わないの」

というようなお話を聞かせていただいた。

その半月後、川崎でスクールバスを待っている小学生の列に斬りかかった事件が起こった。
19人という被害者の数と、2分弱の間での犯行と犯人の自殺という衝撃的な内容に連日報道されている。

叔父叔母に居候させてもらい、30年以上外部との接点もなく生活していた犯人の人物像に謎は深まっているが、犯人のパーソナルとして必ずこう語られている。
「50代男性・ひきこもり傾向」

これだけ多く報道されているのだから、ボランティアでお話したおばあちゃんと息子さんも見ているだろう。
それはいったい、どんな気持ちなのだろう。苦しいのではないか。人ごとではないと思いはしないか。余計な心配がよぎる。

ニュースを見聞きし、それが悲惨な事件であればあるほど、私たちはどこかで「人ごと」として捉えるのではないか。
現実性を欠く内容に「特殊な悪人」が起こした事件であると思いはしないか。
被害者を可哀想にと思い「酷い話だ」と口にすることで、それ以上考えることを放棄してはいないか。
「早急に対策を」という動きをもって「解決」しようとしていないか。

そういう私たちと、先の親子は見方が違う。きっと。
もっと切実な、現実に影響があることなのではないだろうか。

ますます声をかけずらくなったり、ひきこもりを止めさせなければと思ったり、するかもしれないし、逆に親子で何か踏み出すことになるかもしれない。もちろん何もないかもしれない。

私はひきもこっている事が不幸ではないと思う。それだけで人は不幸にならない。
ひきもっていることを「ダメ」とする心が苦しめるのだと思う。そこにあるのは「一般」との「比較」で、その差があることを不幸とする価値観であるからだ。
そこに依っている限り、人は不幸になるのではないか。
もちろん食べていかなければ生命を維持できない、それにはお金が必要、お金を得るためには働かなければいけない。という生活上の問題はついてまわる。

生きることは苦である。四苦八苦。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦。根本的に苦しむ存在が人間である。
苦しくて当たり前だから頑張れ! ってことでは全然なくて、そういう苦しみはついて回るから、それはみんなあるから、そこから一緒に生きるような世界感が描ければいいのにな。そう思う。