旧い写真と老い

家の片づけをしていて、古い写真ができたんです。
母が笑顔で、3歳くらいの私と並んで写っている写真なんですが。
それを見て、「あー、母さん若いなぁ」「希望で満ち溢れている顔しているなぁ」
「どんな気持ちで居たのかなぁ」とか思ったんですね。
あとは「俺かわいいなぁ」とか、思ったんです。
でもしばらく見ていると、なんだか、気持ちがざわざわしてきて、落ち着かなかったんですね。心臓が締め付けられるというか、苦しい感じがして、とっても切ないような気持になったんです。その写真をそれ以上見ないようにしまってしまったんです。
もう見たくないというか、見ていられないという気持ちだったんですね。

それでなんで、そんな気持ちがしたのか後から考えたんです。
その写真には若いころの母と幼い自分が写っています。
それこそ、今の私よりも下の年齢の母が写っていたわけです。今、母は存命でもう70代中盤になります。
その写真の母と、今の母がなんだか違う人物のような気がして、すっと繋がらなかったんです。私は同居していまして、毎日会っていると日々歳をとって老いているなんて気が付かないんですよね。まぁ、なんだか、少しずつ動きがのんびりになるとか、細かいことが不器用になるとか、そういったことで親が年取ってきたんだなぁと思うことはあるんですけど、それは日常の延長にあることで、そんなに老いを感じることではないんです。

それが30数年前の写真の姿を見ることで、歳をとったこと老いたことを痛烈に感じさせらえたんですね。まぁ30年もすれば誰も歳をとるわけで、自分なんてあんなにかわいかったのが、こんな残念になっちゃうんですから。
親の老いを認められないというのは、いつまでの元気でいてほしい、いつまでも死ぬことなんてない。という自分の中にある思いの表れだと思うんです。
それは突き詰めれば、自分の老い、その先にある死というものを、自分には関係ない。自分だけは違う。あるとしても全然先の話で、今は関係ない。
そういう自分が目をそらしているものを突き付けられた感じがしたんだと思うんです。
老いという現実を意識させられた。
写真の頃は30歳、今は70歳、40年経っているわけですから、今から40年経ったら110歳。生きているわけがないんですよね。40年もあったら私自身が生きているかも怪しいですから。
老いること、その中で病気をすること、そして死ぬこと。
昔の写真を見て、せつない気持ちになった中には、人が避けられない老病死を見て、それにちゃんと向き合えない自分が浮き彫りになったと思います。

自分では多くを望まず、つつましく生きているつもりでも、やっぱり根っこの方では何でも自分の思うとおりになると思っているところがあって、今できなくても努力すれば思い通りにできる。とかそういうのが染みついているんだなぁと思うんです。
だから、老病死のような絶対に努力でどうにかなるものではない、命の本来の姿に、胸が締め付けられる気がするんだと思うんです。
それは亡くなっていく悲しみでもありますが、いつまでもあって、思い通りになるものではないということの気づきによって、ちゃんと扱えるというか、丁寧に生きられる希望のようなものだとも思うんです。