コロナの中で真宗僧侶は何を思えばいいのだろう

今、人の中に、無力さと一緒に悲しみが積もっている気がしています。でもその悲しみって、コロナ以前はなかったのかというとそうではなくて、もともとあったものの気がします。人って何だろう?人ってこれでいいのか?というような。だから経済を立て直したらハッピーってことじゃないのは、みんななんとなく分かっているように思います。


積もっている悲しみに対して、ニュースやSNSから流れてくる言葉が追い打ちをかけているようにも感じています。だから、あかるさが与えられれば、それだけで結構ちがうんじゃないかなぁと妄想しています。悲しいねって言ってお互いの目を見て微笑む。そういうことがあるだけで、全然違うんじゃないなぁと。

親鸞さんが、どこまでも自分は凡夫だと、同朋の皆さんと同じ立場なんだと。我が親友と表現してくれる世界感がとても好きです。心がギュっとつかまれます。涙がでそうな感覚になります。この感覚はもうなんだか無敵だぞみたいな風に思います。

親鸞さんの優しさって、悲しさと同じもので。悲しみがあるから優しさが生まれることに、希望があって。なんかそんなことを思っています。