聞法する落とし穴とまたそこにある救い

聞法をするということは、仏教のお話を聞いていくことで、一般的なイメージに沿っていえば講演会などに足を運んだり勉強会に参加して話を聞くことです。

日頃から海住職に「聞法をしていく中で、人は仏法を学ぶという行為や学んだ知識を自分の道具にして、自分が優れた人物になっているように見せる道具にしてしまう」ということを言われていました。その場に私がいたからしてくれた話かもしれませんし、そうではないかもしれません。

私が聞法を始めた頃、私の頭の中には漠然と「なんかいい話を聞いていたら、なんだか良い自分になれるんじゃないか」と短絡的に考えていました。その私にとって海住職の言葉は耳が痛くて、薄っぺらい感覚は見透かされてしまうものだなぁと落ち込んだものでした。

しかし、それが1年後2年後になると「それは分かっていますよ! 私はそんな間違いはもうしないです!」と思うようになっていました。そう変化する根拠が特にあるわけでもなく、なんとなくそうなっていました。

聞法を続ける中で自分自身の関心ごとも変わり、物事に対しての見る角度も変化が起こりました。それは浄土真宗の親鸞聖人の教えに軸足を置いて、生きてみようと決めた事による肯定的な変化だと自分では思っています。

テレビでニュースを見ているとき、凄惨な事件に対して、表面的な感想や対策を講じるように訴える画一的な意見しか言わないコメンテーターを見て、この人たちはどこに立って何をもって意見をしているのだろう。と、思うことも多くなりました。
考えることが増え、自分自身に視点を置かないように、様々な角度から物事をみようとしているようですが、実際には私の中で教えをたよりに出来事を考えていくことで人の上に立っている自分がそこにいました。

そのことに気が付いたのは、池袋の交通事故のニュースが報道されているときです。
90歳近い老人が100キロを超える速度で若い母子を含む複数名をはね、母子は亡くなりました。母親31歳、娘は3歳。世間の怒りは元官僚であった老人に集中しまし、厳罰を求める署名は29万通を超えたそうです。

90歳という高齢者の余命と3歳の子供の余命どちらに価値があるか明白だという意見。人を殺しておいて大した罪に問われないという仕組みに対する怒り。冷静に意見をしようと務めた結果として法律や制度を批判する人。こういう意見が8割9割の中で、どのように問いを持てばいいのか過ごしていました。

かわいそうに、残された旦那さん(子供のお父さん)は残りの人生どう生きていけばいいんだろう。事故をおこした人もここまで社会的に積み上げて誇りに思っていたものがあっただろうに、そんなもの一気になくなるくらい人生の意味が変わってしまっただろう。

などと思いながら、夕飯を食べ続けている私がそこにいました。

リビングでニュースを見ている時間と言うのは、だいたい朝ごはんを食べているか、夕飯時が多い我が家です。可哀想だと心を痛めているふうでいて、共感をしているような顔をして、おいしくご飯を食べている自分がいました。ご飯がのどを通らないということもなく。

考えてみると、他所の国で戦争があり、ものすごい数の人が死傷したというニュースを見ながらご飯を食べ続け、さらにニュースが終わってバラエティー番組が始まったら、ニュースで見た内容などすぐに忘れ笑いながらご飯を食べているのが日常です。
その姿、今の日本においては、きっと普通じゃないかと思うんです。
でも、人間の姿として、ほんとうのかたちではないんじゃないか、異常なのではないかと思うのです。

自分のことで思い出してみると、ニュースを見て、食欲がなくなったのは、世界貿易センタービルに飛行機がつっこむ映像が流されていた2001年9月11日アメリカ多発同時テロの時と、2011年3月11日津波に飲み込まれる街の様子が繰り返し放送されていた東日本大震災の時くらいです。その時ですら、気持ちが塞いではいたもののニュースをみながら食事をしていた気がします。

話を戻します。
聞法をしていく中で、問題意識に変化があり、ニュースを見る目も違ってきた気がしています。それはいい変化のように感じていて、誤解を恐れずに言えば「成長」しているようなつもりでいました。しかし、そう思っている自分は聞法をしていることに悦に入り、そうではない人を下に見ているようになっていた事実があり、悲しみをもってニュースを見ているつもりで、心はそこには向いていない姿でありました。

聞法をするということに対する危うさ。その危うさは聞法という行為にあるのではなく、聞法をするという行為を行う自分自身にある危うさです。
またその危ういところに落ち込んでいく自分であっても、気づいていくことができるかもしれないという救い。それを重く感じた事です。