川崎の事件とすぐそばのこと

今年の頭から、新たに傾聴ボランティアを始めまして、先月その会に参加した時の事。

その日お話ししていたのは80代のおばあちゃん。ちょっと話が飛んだりするものの、お顔もつやつやでとてもお元気そうな印象の方でした。
住まいが公団住宅の4階だというので、ゴミ出し大変だという話の流れの中で

―「いまはお一人でお住まいなんですか?」

「うちには息子が居てね」

―「あぁ、それなら心強いですね」

「うちの子、いわゆるひきこもりってやつなの。誰ともかかわろうとしなくてね、あなたみたいな人がお話ししに来てくれればいいんだけど」

―「そうですかぁ、息子さんはおいくつくらいなのでしょうか?」

「息子って言っても、もうアナタより年上で50代なのよ。何か言うと怒るからもう何も言わないの」

というようなお話を聞かせていただいた。

その半月後、川崎でスクールバスを待っている小学生の列に斬りかかった事件が起こった。
19人という被害者の数と、2分弱の間での犯行と犯人の自殺という衝撃的な内容に連日報道されている。

叔父叔母に居候させてもらい、30年以上外部との接点もなく生活していた犯人の人物像に謎は深まっているが、犯人のパーソナルとして必ずこう語られている。
「50代男性・ひきこもり傾向」

これだけ多く報道されているのだから、ボランティアでお話したおばあちゃんと息子さんも見ているだろう。
それはいったい、どんな気持ちなのだろう。苦しいのではないか。人ごとではないと思いはしないか。余計な心配がよぎる。

ニュースを見聞きし、それが悲惨な事件であればあるほど、私たちはどこかで「人ごと」として捉えるのではないか。
現実性を欠く内容に「特殊な悪人」が起こした事件であると思いはしないか。
被害者を可哀想にと思い「酷い話だ」と口にすることで、それ以上考えることを放棄してはいないか。
「早急に対策を」という動きをもって「解決」しようとしていないか。

そういう私たちと、先の親子は見方が違う。きっと。
もっと切実な、現実に影響があることなのではないだろうか。

ますます声をかけずらくなったり、ひきこもりを止めさせなければと思ったり、するかもしれないし、逆に親子で何か踏み出すことになるかもしれない。もちろん何もないかもしれない。

私はひきもこっている事が不幸ではないと思う。それだけで人は不幸にならない。
ひきもっていることを「ダメ」とする心が苦しめるのだと思う。そこにあるのは「一般」との「比較」で、その差があることを不幸とする価値観であるからだ。
そこに依っている限り、人は不幸になるのではないか。
もちろん食べていかなければ生命を維持できない、それにはお金が必要、お金を得るためには働かなければいけない。という生活上の問題はついてまわる。

生きることは苦である。四苦八苦。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦。根本的に苦しむ存在が人間である。
苦しくて当たり前だから頑張れ! ってことでは全然なくて、そういう苦しみはついて回るから、それはみんなあるから、そこから一緒に生きるような世界感が描ければいいのにな。そう思う。