グリーフケアを考える会での問題に思う内容

個人の感情などは書かないことにしているが、今回グリーフケア事業を始めるに当たってぜひ意見をというお誘いをいただき、本願寺横浜別院での会合に参加させていただいた。その時の話し合いがあまりに空転したため、別院が今後どう事業を進めていくか考える際に、今日感じたことを自分の中に残しておくために記録しておきます。

表現が上から批判的になっている部分などあるため、そういったことが気になる方は、このページは読まないことをお勧めします。

グリーフケアを考える会

まず寺族の参加が少ない、研修を受けた住職や副住職は、研修を受けるところまでは問題意識を持つことができるが、それを自坊の問題として考えることはできないように思う。それが今、真宗大谷派寺院の持っている平均的な問題意識なのだろうが、研修参加者でもそうなのだということには危機感を感じる必要があるように思う。

今回の会合自体が、何のために集まったのかが不明瞭すぎて、時間を空費している感が否めなかった。「今後のことを考えるために広く意見を」というには、時間が90分では短すぎる。また話し合いの場自体も、平等に発言できるように考慮されておらず、話したい人が言いたいことを言っているだけで、何のために集まって話をする場を設けているのかわからない。意見を拾い上げるだけなら、研修終了後に感想及び今後の課題を考えて提出することとしたほうがよっぽどよい。グリーフケア研修会で発言のルールを設けることはとても良いことだ。という感想を言っていた人たちはどこにいってしまったのか。

横浜別院に集まった寺族のグリーフケアに対しての現状の問題は、グリーフケアというものを知っただけにとどまってしまい、学んだこと考えたことを日々の生活・自分の振る舞いに反映させられないことではないだろうか。

研修の内容は次のことに終始していたように思う。(勿論ほかにも色んな要素はあったが)
「グリーフは人によってさまざまなのだから、明確な答えなどなく、正解もない。お寺に努める人間はそれに気づいてお寺の在り方自体を見直していくことができるはず」
各人が提出した感想文にも概ねそういった内容が書かれていたのだから、私個人だけの間違った感想ではないはず。

お寺の人間は、無自覚に人の上に立っている。と感じている。
そう言われれば自分はそんなことない、私は浄土真宗の坊主だから高いところには立っていないと反論されそうだが、グリーフケアを考える会でもそういった部分は散見されるように思う。
講師に来た団体を批評してみたり、話し合いの場で上から問題をとらえた発言をしてみたり、時間が全員のものでる意識もないので自分のしゃべっている時間はすべての人に意味があるものだと思っている。人に教える気持ちが見え隠れしている。

研修会を終えて今後どうするかという話し合いの場で、この話し合いに対しての意見を用意してきた者が数名しかいないように感じた。研修会の資料を持って参加した人間も別院の人間しかいない。グリーフケアの研修自体も3か月あったにも関わらず、別院にいる時間以外で情報収集をしていたり何かできることを考えて行動を起こしていた人がいたのだろうか?
研修会の感想で「もっといろんな団体のことの情報を提供してほしかった」というのは、市民センターなり区民センターのボランティアコーナーにでもいけば詳しい人がいるはずではないか?
研修を受けたことで、学んだ気になるだけならば、やらないほうがマシだとすら思う。危機感を持った人間が自分で情報を集め、その場に足を運んだほうがよっぽど意味があることにつながるのではないだろか。

研修の時にも「傷ついた人にかける言葉を知りたい」という内容の期待が多く、それは正解になる手法を知りたいとか、テクニックを知りたい。ということで、そのこと自体が間違っているということに気が付くための研修ではなかったのか?
人の心に寄り添うなんていう言葉を簡単に使う割に、そのために「個人の存在を尊重せず、万人に通用する方法を求めている」という大きな矛盾に気付くべきだと感じる。

仏教の教えは「命そのもののかけがえのない尊さこそが真実である」ということにつきるはずなのに、そのものを見ていないことに気が付けていないのではないか。

グリーフといっても大往生した人や認知症のホームで亡くなった人と、自殺で子供を亡くした人では違うから、「死の悲しみの重い人を集めるべきだ」という意見は、死の価値を坊主がつける行為であり、真宗の教義自体にもそぐわないのではないか? また自死遺族や交通事故死遺族やら、そういった「特殊な死」ととらえられるものはどこにも分かち合いの会があり、「普通の死」と言われるものにこそそれがないという情報すら持っていないのは、自分で問題に向き合う方法を知らないとしか思えない。今回みたいな話し合いの場で問題が解決される動きが生まれるわけでない、極端に言うなら自分でやる人にとってはこんな会合いらない。

今後の話題についても、今後も定期的に研修をといった意見と、もっと生きた事例を体験したいといった意見には、お寺の人間の世間ずれの極みを感じざるを得ない。
何のために研修を受けたのか。研修を受けるために研修受けた。研修をするために研修を企画した。というのが現状の正当な評価に思える。

そして、研修を受けに来た住職たちはこれまで何を問題だと思ってきたのか。
生きた事例なんていうのは、世間一般の人よりもよっぽど目の前に転がっているはずで、「普通の毎日の法事には大した意味など見出していない」という表れではないのか? 世間一般の価値観からしたら、「特別な死」と「普通の死」というのは事実あるだろう。それぞれの人に対して感じることも違うし、かける言葉も違ってくるだろう、それをしてしまうのが凡夫の善悪であろう。その自覚にたって、考えるべきなのが寺院の行うグリーフケアなのではないだろうか。

動かない組織など何の意味もない。動かすのに時間がかかるのであれば、個人で動くほうがよっぽど何かを得られる。横浜別院という枠、グリーフケア研修を受けたという枠、現状では足かせにしかなっていないように感じた。