企業は機会を作り出す。お寺は?

糸井重里さんの本を読んでいたら、「企業は利益を生み出すためではなく、機会を生み出すためにあるのではないか」
というような内容のことが書いてあった。「商品」が「ユーザー」に出会うのが機会。「サービス」が「ユーザー」に提供されるのも機会。
「喜び」「便利さ」「満足」などに出会う機会を生み出すのが企業だという考えは、気持ちがいいなと思う。

本来、商売というのはそれを提供する側にも、自分が利益を確保する機会ではなくて、
お客さんの求めているものに応えて満足してもらう機会であることも矜持のようにもっていたような気がする。

昔からの商店をいまだに営んでいる家具屋の社長さんに話を聞いたときにこんなことを言っていた
「今のお客さんは、お店に来て相談だけして、商品の型番を控えて帰って、それをインターネットで探して一円でも安く買う」
人がいるそうだ。何故、店舗があって店を構えているのか、その負担なんて考えも及ばないんだろうねぇと言っていたのが印象的だった。

企業が利益を生み出すためだけに動くようになった背景には、客である我々側の問題も大きいのだろう。
結局、今の息苦しい時代を作っているのは、一番自分たちが弱者だと思っている庶民達の発想の貧困さによるところが大きいのかもしれない。

さて、私が勤めているところが寺なので、こういう話題があがると「じゃあ、寺はどうなのよ?」と思うようになってしまった。
この話における企業を寺に置き換えると果たしてどうなるだろうか。

「お寺は利益を生み出すためではなく、機会を生み出すためにある」
そっくりそのままで、ぴったりと当てはまるのではなかろうか。

お寺が利益を生み出す為の部分にばかり力を入れている結果が「葬式仏教」といわれる現状だろう。
だとすれば、本来はもっと何かしらの「機会」を提供できていたはずである。

現代において、寺が提供すべき機会は何なのか、キチンと考えるべきだろう。
仏教だからできる機会の提供方法のほうを考えてみたらどうかなぁ。